おんたま倶楽部

読書感想文などを中心に書いていこうと思います

読書感想文 野火ノビタ(榎本ナリコ)『大人は判ってくれない』 page 3

(前回からの続き)

 

③「愛し愛される」関係性それ自体への欲望

 やおい女子は、受けとして愛されることを欲するとともに、攻めとして愛することをも欲する、ということを見てきた。しかして、関係の項は二つしかないのだから、欲望の対象はこれで尽きているようにも思える。が、そうではない。彼女たちは、攻めと受けのキャラクターだけではなく、そのキャラクターどうしが愛し愛される関係性をも欲望している、と野火氏はいう。しかも、たんなる性愛としてではなく「完璧な愛」として、その関係を欲しているのだ、と。

 

 私は、野火氏のいう「完璧な愛」を構成する要素を、やおい女子たちが置かれている現実の異性愛と対置させて、以下のように整理してみた。とはいえ、初めに断っておくが、野火氏じしんはこうした整理をしているわけではなく、これらの用語を使っているわけでもない。これはあくまで、私の勝手な整理の仕方である。

 

        完全な愛         現実の異性愛

①立場      対等          支配/被支配

 

②対象   相手の人格(全人的)    相手の肉体(肉欲的)

 

  ①の位相は、性愛関係にある者どうしの相対的な立場に関わる。この場合、対等性とは文字通り、両者の立場が対等であることを意味するのに対し、支配/被支配とは一方が他方を支配する関係にあることを意味する。他方、②の位相は、性愛関係にある相手のどこを愛するか、ということに関わる。この場合、全人的とは、相手の人格をまるごと愛することを意味するのに対し、肉欲的とは相手の肉体が目的であることを意味する。そして、結論を先取りしていえば、完璧な愛を構成するこれら二つの要素は、攻×受の双方が同じ男性としての肉体を持っている、というところにエビデンスがあるとされている。以下ではこれらの要素について、順にみていこう。

 

対等性⇔支配/被支配 

 これまでも繰り返し述べられたように、現実における男たちとの性愛において女子たちは、「欲望する者と欲望される者、犯す者と犯される者、主体と客体という覆しようのない固定的な関係」を強いられてきたのであり、それが彼女たちの原点にあったのだった。ときに男たちは、その肉体的な主従関係を、精神的な関係にまでも無理やり転用しようとする。本来男女は精神的には対等であるはずなのに、体格的にも社会的にも優位にある男たちは、それを不当にも力づくで押しつけようとしてくる。前時代的な価値観をもつ男ほど、その傾向は強い。

 

 ところで、ここで素朴な疑問が生まれる。彼女たちは、現実の異性愛にこうした主従関係がつきまとうのが耐えがたかったからこそ、やおいファンタジーへと脱出していったのだった。にもかかわらず、そのやおいの世界において、攻×受という役割関係が、あたかも絶対的な掟のように、愛し愛される者どうしの間に本質的に存在するとみなされているのは、矛盾ではないだろうか? というのも、攻×受とは、とりわけやおいの部外者にとっては、まさに支配/被支配のエッセンスそのもののように見えることがあるからだ。

 

 これに対して、野火氏は次のようにいう。やおいにおける攻×受とは「差別的な男女間にあるような一方的な力関係を保ってはいない」のだ、と。「「受け」であるからといって精神的に下位に立たされることはない」し、「「攻め」であるからといって、いつも相手に君臨できるわけでもない」のだ、と。つまり、両者が担う役割の外見とは裏腹に、彼らは精神的には完全に対等なのである。だからそれは、現実の男尊女卑を、たんに空想的に転倒させただけのものでもない。たしかに、攻めに同化し、奪取したペニスで男を犯したいという欲望には、少なからずマンヘイトの気分がある。だが、もし仮に、それゆえ今度は逆に男たちを支配してやりたい、ということだけが関心の中心だったとしたら、彼女たちはシンプルに女尊男卑の世界を夢想したはずだろう。が、実際にはそうはならなかった。彼女たちは、男どうしが対等に愛し合う世界をこそ望んだのである。そこで何が志向されているのかは明らかだ。彼女たちは、たんに男性優位社会を転倒させようとしているのではなく、もっと根本的に、一方が他方を支配し従属させるという関係性そのものを乗り越えようとしているのだ。彼女たちは信じたいのである。それが世界の全てではない、ということを。

 

 やおいの攻×受は、通常は固定されているものの、ときには「リバーシブル」に入れ替わることもある。また、精神と役割の位相が必ずしも一致しているわけではなく、精神的には受けなのに役割は攻めという、いわゆる「ヘタレ攻め」があえて設定されることもある。とはいえ、野火氏は、たとえ「完璧に女性らしい「受け」でさえも、「攻め」と同じ肉体を持つという意味では「攻め」と対等」なのだ、といっている。この論理はきわめて興味深い。精神の対等性を表わすエビデンスとして、肉体の同性性が提示されているからである。e-vi-dence、すなわち外に-見える-もの。同じ男の肉体という、その見るからに明らかな対等性は、カップルの関係が支配的なものでないことを常に明示する装置であり、だからこそやおい女子たちは、安心して彼らの性愛に感情移入することができるのだろう。どれほどハードな性行為が描写されても、それは決して支配的なものではありえない。なぜなら、彼らは二人とも男の体を持っているのだから。もっとも、この論理は裏を返せば、現実の肉体関係において、彼女たちがいかに男たちから従属を強いられているかを示すものでもある。「セクシュアリティによる差別が、最も端的に持ち出されるのは肉体においてなのである」という野火氏のテーゼが、ここにも反響している。

 

全人的⇔肉欲的

 野火氏いわく、やおい作品の世界においては「性差の問題が全く無視される」。そして、その代わりに強調されるのは、「相手が相手自身である」ということである。相手の肉体にではなく、人格に向けられた愛。だから攻めのキャラクターは、受けのキャラクターを愛するとき、しばしば次のように語る。「俺は男が好きなのではなく、お前が好きなのだ」、「たまたま好きになったのがお前であるだけだ」、「お前が、ほしい」と。これらのセリフはいずれも「相手自身そのものをあますところなく全人的に、完璧に愛する」ということの表明にほかならない。やおい女子たちが陶酔するのは、そんな愛の言葉をささやき合うカップルたちの姿だ。

 

 だが、こうして相手の人格にのみ向けられる性愛を「完璧な愛」として理想化する身ぶりの背後には、彼女たちを異性であるがゆえに欲する男たちの肉欲に対する強い拒否感が隠されている。異性であるがゆえに、というのは、もっと露骨な言い方をすれば、異性の肉体を持つがゆえに、ということである。男性優位社会において、彼女たちの肉体は強制的に商品化され、年齢・容姿・気立て・性体験・魅力などのポイントで品定めされている。そうした男たちの買手市場においては、やおい作品の世界とは真逆に、相手が相手自身であること、彼女が彼女自身であることは全く無視され、彼女たちは非人格的な肉体だけの存在へと貶められている。

 

 こんな不公平は明らかにおかしい、そう思いつつも、彼女たちはときに、こう思うことがあるかもしれない。いっそのこと、この現実を受け容れてしまって、男たちに選ばれるために、ひたすら自分のスペックを磨くことに傾注したほうがいいのかもしれない、そういう生き方のほうが楽なのかもしれない、と。その半身で、彼女は女としての現実を生きている。だが、たとえそのように生きてみたからといって、男たちの性的な眼差し、あるいは、そうして眼差されるみずからの肉体への違和感が消え去ることはない。その抑圧された情念がやがて、あの「内圧に押し出されてゆく切迫した気分」となり、残されたもう片方の半身をやおいファンタジーへと羽ばたかせることになるのだろう。彼女たちはそこで、汚らわしい女の肉体を脱ぎ捨て「魂だけになる」ことを夢想するようになるだろう。

 

(次回に続く)