おんたま倶楽部

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読書感想文 野火ノビタ(榎本ナリコ)『大人は判ってくれない』 page 1

やおい女子の原点と三つの欲望

 現実の性愛において、女が男に対して担わざるをえない「役割」を、野火氏は次のような式で記述している。

 

 「愛する(犯す)男」 × 「愛される(犯される)女」としての「私」

 

 女はどうやってもこの役割関係を覆すことができない。彼女には「ペニス」がないからだ。男の「肉体」にはペニスがついており、女の「肉体」にはペニスがついていない。だから、男が犯す側であり、女が犯される側である。以上。身も蓋もない、バカみたいな話だ。しかし野火氏は、この肉体の現実をこそ重視する。ペニスを持たないという、ただそれだけの理由から、女は男との肉体関係において絶対的に不公平な役割に甘んじなければならず、甘んじなければならないがゆえに、いつしかみずからの肉体を「不能」と感じるようになる。

 

 こうした野火氏の論に際しては、誰もが精神分析を想起するだろう。周知のとおり、精神分析において「ペニス」は権力の象徴であり、本書もこの考えを参照しているのだろう、と。たしかに、野火氏がこうした知見を考慮していることに疑いはない。しかし、こうした象徴性は、こと野火氏の言論空間においては、過度に強調されるべきではないように思う。おちんちんがない、という、解釈もへったくれもないあからさまな肉体の現実をこそ、野火氏はあえて重視しており、それが彼女のやおい論の強みであり正しさであると思えるからだ。

 

 さて、こうした肉体の不能感という現実が女子たちの原点にあるのなら、彼女たちは何を求めて、やおいというセックスファンタジーのなかへと出かけてゆくのだろうか。

 

 そもそもやおいとは、男同士の性愛を描く物語である。その愛の現場に、女のキャラクターは通常姿を現わさず、あるいは現したとしても脇役としてにすぎない。であれば、現実的には女性であるやおい女子たちは、どうやって作品の物語にコミットし、カタルシスを得ているのだろうか。彼女たちは一見不在にみえる。が、野火氏いわく、やおい女子たちは、実は愛し合う男たちに心情的に「自己投影」し、彼らと「同化」しているのだという。

 

 この「感情移入」のプロセスは、やおい作品と彼女たちのあいだで複雑に絡み合っているのだが、野火氏はそれを次の三つの欲望としてきわめてクリアに析出している。

 

 ①「受け」として「愛されたい」という欲望

 ②「攻め」として「愛したい」という欲望

 ③「愛し愛される」関係性それ自体への欲望

 

 このように、数式のような明晰さと、やおい作品への愛の熱量とが完璧なかたちで符合するのが、野火氏の論の特徴である。以下では順に、これら三つの欲望についてみてゆこう。

 

「受け」として「愛されたい」という欲望

 第一に、やおい女子たちは、受けのキャラクターに感情移入しているのだと野火氏はいう。それは、その身体的特徴からして明白で、ペニスが挿入される性器としての受けのアナルは、明らかに女性器を模して描画されており、女子たちの同化を呼び込むための装置として機能している。実際、長年にわたって同人誌界を観察してきた野火氏の実感に照らしてみても、受けのキャラクターに感情移入しているやおい女子の割合はかなり多いのだという。しかして、この受けの観点からすれば、攻めのキャラクターとは彼女たちにとって「抱かれたい男」であることになり、冒頭に挙げた性愛の式は次のような仕方で「スライド」されていることになる。

 

 「愛する(犯す)男」 × 「愛される(犯される)女」としての「私」

→「愛する(犯す)男」 × 「愛される(犯される)男」としての「私」

 

 このスライド運動によって、やおい女子は「自分と男との関係の位相はそのまま保存しながら、女性としての現実の肉体を放棄」することに成功している。彼女は、肉体的には当事者でないが、心情的には当事者になることができる。そんな彼女の変身を何がモチベートしているのかは明らかだろう。あの、身も蓋もない肉体の現実である。生身のままで犯されれば、男の支配を免れることはできない。そこにはさまざまな傷つきのリスクも伴う。強姦されるかもしれないし、望まない妊娠をさせられるかもしれない。その点、受けのキャラクターの有するファンタスティックな肉体は都合がいい。その肉体は、どれだけハードな性行為によっても傷つくことはなく、生々しくもなく、同性であるために妊娠させられる危険性もない。異性である男の肉体は、我と我がものとして想像するのが難しいのだが、彼女たちはむしろそのリアリティのなさを逆手に取り、防壁としての幻想性を加速させることへと援用する。野火氏いわく、こうした装置によってやおい女子は「自分自身は安全圏に置きながら、セックスの快楽だけを享受することができる」という。ペニスをもたない彼女たちにとって、受けへの感情移入は、現実よりも「モアベター」なオプションとして機能しているのである。

 

 安全なセックスを欲して出かけてゆく彼女たちをして、それを安易な現実逃避とみなす向きもある。そうした見方に対して野火氏は、ある程度は同意を示しつつも、そう断定することでこと足れりとする態度は避けるべきだと付言する。なるほど、それは現実からの逃避ではあるかもしれない。しかし、だとすればなおさら重要なのは「彼女たちがなぜ、自分自身のままでは抱かれたくないのかを考えることだ」からだ。彼女たちはみな、多かれ少なかれ、生身のままで性行為を行うことにコンプレックスを抱いている。当然その度合いは人それぞれで、強烈な嫌悪を抱いている者もいれば、ささやかな憂鬱を感じているだけの者もいるだろうが、そこには共通の、あの肉体の不能感から脱出しようという衝動がある。女子たちは、安全さや気楽さを求めてやおいへと向かうのだが、彼女たちがそうするのは、そうした「内圧に押し出されてゆく切迫した気分」からなのであって、それはたんに平穏無事な日常から出かけてゆくという安易な逃避行ではないのである。

 

(ちょっと長くなりそうなので、続きは後日)