おんたま倶楽部

読書感想文などを中心に書いていこうと思います

読書感想文 中島梓『タナトスの子供たち 過剰適応の生態学』 page 1

中島梓のアンビバレンス

 

はじめに

 ふとしたきっかけから、私は「やおい」に関心を持ち、近ごろ関連書籍を読んでいる。その一環で、本書を手にした。この分野において、本書は主要な著作とみなされている。

 その独特の文体のために、初めのうちは違和感しかなかったが(だって文末に(爆)とか書くから)読んでいるうちにそれは慣れた。内容は非常に面白く、分析は鋭く、ぐいぐいと引き込まれるように読み進めた。が、途中まで読んで、私は自分の中に湧き起こった疑問をいったん整理したくなった。その疑問は、個々の内容についてというよりも、やおいの読者について語る著者の中島じしんのアンビバレントな身ぶりに関わるものだった。これ以降の自分の読みを助けるためにも、限定的にではあるが、試みに文章を書いてみる。

 

優しいディスコミュニケーションの世界

 やおいの界隈にいる女性たちは、やおいの言語だけを話し、やおいの感覚を共有できる人どうしとしか交際しない。中島いわく、そんなアニパロ同人誌の世界は、「みんな吃驚するほど優しく、そして丁寧でフレンドリィ」(p.79)である。そこでは、たがいの作品を批判するような言葉は決して口に出されず、中島の感覚からすれば「相当ひどい(ときたま、すさまじい)絵のレベルな人」でさえ、必ず誰かが褒めてあげ、自負心を優しく救済してあげるのだという。

 

 「もうみーんなほんとに優しくって哀しくなるほどに心やさしい人々である」(p.80)と、中島はアイロニカルな調子で語る。では、どうして彼女たちは、そんなにも過剰に優しい世界を創り出すに至ったのか。それは、彼女たちの原点に、現代の男性優位社会において女性として深く傷つけられたというトラウマがあるからである。その結果として、彼女たちは、みずからの価値観を傷つける可能性のある一切の「他者」を拒絶する「ディスコミュニケーション」の世界に引きこもってしまった。その世界が、まさしくやおいの世界なのである。中島はいう、「ヤオイとは結局、疎外され、居場所を失い——ないし与えられなかった少女たちが見出した、究極の内宇宙、彼女たちにあたえられた社会の環境のゆがみがもたらした、いびつな、しかし幸福な性と愛との新しいエデンであった、と——」(p.222)。

 

 少女時代にあっては「大人」、性的には「男」という不気味な他者たちから、彼女たちは虐待されて生きてきた。彼女たちの人格や主体性を一切認めようとせず、自分たちの尺度で利用することしかしない「異物」たち。それでも反抗することはおろか、その場から逃げ出すことさえ許されず、ひたすら彼らと「コミュニケーション」をとり続けることを強いられてきた。そんな彼女たちにとって、同質的な者どうしで寄り集まるやおいの優しい「ディスコミュニケーション・ファンタジー」 は、この過酷な世界の中でようやく見つけることのできた居場所なのである。彼女たちは「コミュニケーションの力を要求し、それがなければあっさり叩きつぶされる大人たちの世界から抜け出して、この「まんだらけ」の世界の片隅でようやく安らっている」(p.80)、と中島はいう。だから、やおいの界隈に定住し、その言語と感覚を共有する者としか交際しないという彼女たちの身ぶりとは、「あんたたち(大人)の論理はもういらない」「もう私たちはそこからオリるよ」という国交断絶宣言でもあるのだ。彼女たちは、自分たちのことを虐げてきた他者たちとの関係を断ち、やおいという「子宮」のなかで永久にまどろんでいたいのである。

 

同情と突き放し

 こうした生育歴をもつやおい読者たちの境遇に、中島は一方では同情を示す。あまりにも過酷な環境に適応するために、適応すべき環境そのものを拒絶してしまった彼女たちの「過剰適応」は、もとはといえばそれを強いた社会のせいなのであって、彼女たちが悪いのではない、という目線が中島にははっきりとある。男性が女性に対して非常に優位なこの社会において、彼女たちは幼い頃から厳しい選別の目に晒され、年齢・容姿・気立て・性体験・魅力等のポイントで価値を判定された「商品」として生きてこなければならなかった。「闘技場で活躍して賞賛を得る資格も与えられず、家庭のなかにも居場所を認められず、ただただ「優秀な性的商品であれ、そうしたら抱いてやろう」とそそのかされてきた少女たちというのは、ある意味で、全員が性的虐待と精神的遺棄の被害者なのではないでしょうか」(pp. 225-226)、「自分の値打ちは大人たち、男たち、社会、つまり自分を「選んでくれる」相手が決めることなのだと信じこまされてゆく少女たちは基本的にネグレクトの被害者だといってもいい」(p.227)と、中島はいう。だから、そんな過酷な虐待の末に、彼女たちが男たちの「買い手市場」とも呼ぶべきこの社会にとっての「いい子の少女」であることをやめて、永久にファンタジーの世界に住まうようになったとしても、それはそんな過剰な適応を迫った社会の方が異常なのだ。「この世界が、これでよくないから、そういうことがたくさんおこっているのだし、そもそも世界などというものは「これでいい」ことなど決してありえない」(p. 356)。

 

 しかし他方で中島は、そんなやおいの読者たちを思い切り突き放すようなそぶりもみせる。やおい作品に安らう彼女たちについての中島の語りに、常に何がしかのアイロニカルな調子が伴うことには、本書を一読した者であれば誰もが気づくだろう。その例は枚挙にいとまがないが、たとえばやおい作品をして「傷つき現実のなかでもまれることに疲れた未成熟なかよわい自己愛をそっと外の世界の波風から守り、やすらかなディスコミュニケーションの緩衝材でおおいつくした異次元のなかでの、強烈な癒しの麻薬」(p.118)とする一文などはその典型である。そもそも「過剰適応」という語彙からしてそうなのだが、中島は明らかに、彼女たちの生き方に対して否定的な考えをもっている。なかには「弱者のヒロイック・ファンタジー」(p.82)あるいは「ディスコミュニケーション時代の精神の病気」(p.100)といった峻烈な言葉も見当たり、これなどはもはやアイロニーのレベルを超えた、あからさまな攻撃である。とうてい性的虐待からのサバイバーに対するふるまいだとは思われない。当事者であれば、思わず「ほっておいてください!」と叫び出したくもなるのではないか。

 

 こうした批判を中島は、陰に陽に本書のいたるところで繰り広げているのだが、それらはつまるところ、やおいの世界には「他者」がいない、という一点に極まるのだといえる。

 

「本当はコミュニケーションというのは「他人がいかに自分と異なる存在か」ということを理解するためのぶつかりあいです。かれらはそのぶつかりあいも、「他人が自分と異なる存在」だということを理解するのもイヤだ、と表明しているのです。ぶつかりあいません、自分たちは勝手にこのファンタジーを守っています、だから近寄るな、こっちにくるな、この世界に関係ない人は関係ない、というのが無意識的にせよかれらの論理だと思います」(p.83)

 

 容易には理解しえない者どうしが互いを刻み合い、身を切るようにして交互に研ぎ澄まされるプロセス、そんな「ぶつかりあい」だけが、中島にとっては真にコミュニケーションと呼びうる営みなのだろう。そして当然こうした観方からすれば、共感できる者どうしで身を寄せ合い、傷つけ合わないことだけを至上命題とするようなやおい界隈の関わり合いは、人間関係のあるべき姿とはみなされない。中島が彼女たちの語らいをして「ディスコミュニケーション」と呼ぶのも、そこで語らっているのが、他者ではなくむしろ「もう一人の自分」であり、そこにあるのは実質的には独り言である、と彼女が考えているからだろう。

 

 しかして、こうした批判を展開する中島が、大前提として〈他者とコミュニケートすべきである〉という立場に立っているのは言うまでもない。それはほとんど、コミュニケーション至上主義と呼んでも過言ではないほど強固なものだ。中島はときに、ディスコミュニカティヴなやおいの世界をして「それでいいのです」(p.80)、「べつだんそれが悪いといっているのではありません」(p.99)と言ってみたりもするのだが、本書のアイロニカルな主調の中では、この言葉を字面通りに受け取る者はいないだろう。中島がぜんぜん「それでいい」と思っていないのは明白で、むしろこれはやおい読者たちに対する突き放しの身ぶりというべきである。要するに、わかりあえない他者とわかりあえなさを抱えたままコミュニケートしつづけるべきであり、それを拒絶して自分たちだけの世界に閉じこもるのはダメである、と中島個人は考えているわけだ。彼女に迷いがあるとすれば、その個人的な価値観を、どこまで自分以外の他人、つまりやおい読者の女性たちにまで適用してよいか、という地点においてであって、裏を返していえば、少なくとも彼女自身にとってコミュニケーションが持つ価値に限っては、揺らぎは全く見受けられない。

 

 こうした中島の考えに対しては、やおい読者はおろか、多少なりともディスコミュニカティヴな性格を自認する者であれば、反感をおぼえることがあるのではないか。正直にいって、私じしんはそうだった。厳しい批判を向けられている彼女たちに勝手に自己を投影した私の胸中には、本書を読み進めるにしたがって、中島の主張に対する反感がムクムクと湧き上がってきてしまった。

 

 そもそもまず、どうしてそんなに手放しにコミュニケーションの価値を礼讃できるのかがわからない。なぜ中島は、ディスコミュニケーションとコミュニケーションを、等位の立場として捉えようとはしないのだろう。また、仮にコミュニケーションには無条件に価値があるのだとしても、それによってやおい読者たちの関わり合いを全否定するのは間違っている。彼女たちは、ずっと自室に引きこもっているのではなく(べつに引きこもっていてもいいのだが)、作品を通してれっきとしたコミュニティを形作っている。それが、世間一般の人間関係と比べて、相対的に他者性が弱いものだとしても(そもそも、中島を含め、世間の人びとが普段からそれほど強い意味での他者とコミュニケートしているのかも私には甚だ疑問なのだが)、彼女たちの関わり合いを緩やかな「他者」とのコミュニケーションだといってはならない理由はない。価値観や趣味趣向を全く異にする他人以外は「他者」と呼ぶには値しないというのは、狭隘な独断にすぎない。それに、これも忘れてはならないことだが、やおいの世界は彼女たちにとって生活のぜんぶではない。学校や職場、家庭、恋人・友人・知人との関係…、彼女たちには日常的にやおい読者ではない無数の「他者」と関わっている。その中で、ときおりそうしたコミュニケーションによる疲れを癒すために、生活の一部としてディスコミュニカティヴな世界を持つことが、どうしてそれほど非難されねばならないだろう。この社会が、彼女たちを虐待しつづけた、あるいは今もしつづけている男性優位社会であることを考えればなおさらだ。やおいの世界でまでハードなコミュニケーションを強要されたなら、彼女たちはいったいどこで安らえばいいのか。

 

ぜんぜん優しくない大人として

 とはいえ、こうして思いつくままに反論を並べ立てて、だからもう「ほっておいてください」と言ってしまうというのもどうなのか。それでは本書を繙いた甲斐がない気がする。中島が批判していたのは、まさにそうして途中でコミュニケーションを打ち切ってしまう態度だった。であれば、もう少し別の角度から彼女の意図を受けとめることはできないか。

 

 改めて気になったのは、やおいに対して部外者のようにふるまう中島の身ぶりである。たしかに、彼女はやおいに属する作品を数多く執筆しているし、じしんがそのジャンルのパイオニアの一人であるという自負もある。だが、現在の読者たちに共通すると彼女がみなしているAC(アダルトチルドレン)としての性格、あるいはその原因としての外傷体験についていえば、そうしたものを自分じしんは持っていないと中島は明言している。拒食症や依存症になったこともなければ、リストカットをしたこともない。主観的にはともかく、客観的には恵まれた環境のもとに育った。社会生活にもさほどの障害はなく、他人とのコミュニケーションをとれている。これらの発言によって中島が表明しているのは、自分は読者たちとやおいを拠りどころとせざるをえない生きづらさを共有してはいないし、そういう意味では部外者である、ということだ。

 

 こうした表明は、またしてもやおい読者たちの神経を逆なですることになりかねないものではある。同じ傷、同じ生きづらさを抱える人にならまだしも、無傷の部外者から、あなたたちはACだからダメだ、と言われれば、あなたに私たちの何がわかる、という気にもなろうからだ。

 

 しかし、私はそこで、ふと思った。中島のこのふるまいはひょっとすると、あえてのものではないのか、と。あえて、というのはつまり、こうした身ぶりによってこそ彼女は読者たちに対して強い意味での「他者」であろうとしている、ということだ。優しい世界に土足で踏み入り、言ってはならないことを口にする。その禁句が少女たちの怪我した心に突き刺さる。悲鳴が聞こえる。……だが、それによって中島は、本当の意味での「他者」とはこういうものだ、ということをみずから体現しようとしているのではないか。

 

 そういうふるまいがやおい読者たちに拒否感を与えることについて、中島はきわめて自覚的である。

 

「この評論を読んで「違う。絶対違う」と感じるやおいのヒトも数多くいることだろうと思います。それは、この文章もまた、大人の言語で書かれているからです。書いている内容ではなくて、コミュニケーションのために発明された言語を使って書かれている、というだけでもう、ディスコミュニケーション・ファンタジーの人々にとってはそれは「違う」のです」(pp.83~84)

 

 ここでいわれている「大人の言語」あるいは「コミュニケーションのために発明された言語」とは、言語を共有しない者どうしの間で交わされる言語のことだろう。とうぜん、その言語でのコミュニケーションはスムーズではなく、ぜんぜん「キモチイイ」ものではない。たがいの価値観がいちいち抵触するぎこちなさや、護っている自分の価値観が傷つけられる不安がともなう。だが、中島がいおうとしているのは、まさにこれこそがコミュニケーションなのだ、ということだろう。彼女たちとの間に「大人の言語」のチャンネルを強制的に開くために、中島はあえて、ぜんぜん優しくない大人としてふるまっているのではないか。そして、もっといえば、これは中島なりのエンパワメントなのかもしれない。つまり、あなたたちもこのくらい好き勝手にしていいのよ、という。中島が彼女たちに対して他者であるように、彼女たちもまた中島に対して他者であっていい、という。同人誌の界隈で出会った彼女たちのことを「哀しくなるほどに心やさしい」と評していた中島は、そんなに優しくなんてならなくていい、ということを自らの身ぶりで伝えようとしているのではないか。あなたたちだって大人になれるのだから、ずっと傷ついた少女のままではないのだから、と。

読書感想文 野火ノビタ(榎本ナリコ)『大人は判ってくれない』 page 3

(前回からの続き)

 

③「愛し愛される」関係性それ自体への欲望

 やおい女子は、受けとして愛されることを欲するとともに、攻めとして愛することをも欲する、ということを見てきた。しかして、関係の項は二つしかないのだから、欲望の対象はこれで尽きているようにも思える。が、そうではない。彼女たちは、攻めと受けのキャラクターだけではなく、そのキャラクターどうしが愛し愛される関係性をも欲望している、と野火氏はいう。しかも、たんなる性愛としてではなく「完璧な愛」として、その関係を欲しているのだ、と。

 

 私は、野火氏のいう「完璧な愛」を構成する要素を、やおい女子たちが置かれている現実の異性愛と対置させて、以下のように整理してみた。とはいえ、初めに断っておくが、野火氏じしんはこうした整理をしているわけではなく、これらの用語を使っているわけでもない。これはあくまで、私の勝手な整理の仕方である。

 

        完全な愛         現実の異性愛

①立場      対等          支配/被支配

 

②対象   相手の人格(全人的)    相手の肉体(肉欲的)

 

  ①の位相は、性愛関係にある者どうしの相対的な立場に関わる。この場合、対等性とは文字通り、両者の立場が対等であることを意味するのに対し、支配/被支配とは一方が他方を支配する関係にあることを意味する。他方、②の位相は、性愛関係にある相手のどこを愛するか、ということに関わる。この場合、全人的とは、相手の人格をまるごと愛することを意味するのに対し、肉欲的とは相手の肉体が目的であることを意味する。そして、結論を先取りしていえば、完璧な愛を構成するこれら二つの要素は、攻×受の双方が同じ男性としての肉体を持っている、というところにエビデンスがあるとされている。以下ではこれらの要素について、順にみていこう。

 

対等性⇔支配/被支配 

 これまでも繰り返し述べられたように、現実における男たちとの性愛において女子たちは、「欲望する者と欲望される者、犯す者と犯される者、主体と客体という覆しようのない固定的な関係」を強いられてきたのであり、それが彼女たちの原点にあったのだった。ときに男たちは、その肉体的な主従関係を、精神的な関係にまでも無理やり転用しようとする。本来男女は精神的には対等であるはずなのに、体格的にも社会的にも優位にある男たちは、それを不当にも力づくで押しつけようとしてくる。前時代的な価値観をもつ男ほど、その傾向は強い。

 

 ところで、ここで素朴な疑問が生まれる。彼女たちは、現実の異性愛にこうした主従関係がつきまとうのが耐えがたかったからこそ、やおいファンタジーへと脱出していったのだった。にもかかわらず、そのやおいの世界において、攻×受という役割関係が、あたかも絶対的な掟のように、愛し愛される者どうしの間に本質的に存在するとみなされているのは、矛盾ではないだろうか? というのも、攻×受とは、とりわけやおいの部外者にとっては、まさに支配/被支配のエッセンスそのもののように見えることがあるからだ。

 

 これに対して、野火氏は次のようにいう。やおいにおける攻×受とは「差別的な男女間にあるような一方的な力関係を保ってはいない」のだ、と。「「受け」であるからといって精神的に下位に立たされることはない」し、「「攻め」であるからといって、いつも相手に君臨できるわけでもない」のだ、と。つまり、両者が担う役割の外見とは裏腹に、彼らは精神的には完全に対等なのである。だからそれは、現実の男尊女卑を、たんに空想的に転倒させただけのものでもない。たしかに、攻めに同化し、奪取したペニスで男を犯したいという欲望には、少なからずマンヘイトの気分がある。だが、もし仮に、それゆえ今度は逆に男たちを支配してやりたい、ということだけが関心の中心だったとしたら、彼女たちはシンプルに女尊男卑の世界を夢想したはずだろう。が、実際にはそうはならなかった。彼女たちは、男どうしが対等に愛し合う世界をこそ望んだのである。そこで何が志向されているのかは明らかだ。彼女たちは、たんに男性優位社会を転倒させようとしているのではなく、もっと根本的に、一方が他方を支配し従属させるという関係性そのものを乗り越えようとしているのだ。彼女たちは信じたいのである。それが世界の全てではない、ということを。

 

 やおいの攻×受は、通常は固定されているものの、ときには「リバーシブル」に入れ替わることもある。また、精神と役割の位相が必ずしも一致しているわけではなく、精神的には受けなのに役割は攻めという、いわゆる「ヘタレ攻め」があえて設定されることもある。とはいえ、野火氏は、たとえ「完璧に女性らしい「受け」でさえも、「攻め」と同じ肉体を持つという意味では「攻め」と対等」なのだ、といっている。この論理はきわめて興味深い。精神の対等性を表わすエビデンスとして、肉体の同性性が提示されているからである。e-vi-dence、すなわち外に-見える-もの。同じ男の肉体という、その見るからに明らかな対等性は、カップルの関係が支配的なものでないことを常に明示する装置であり、だからこそやおい女子たちは、安心して彼らの性愛に感情移入することができるのだろう。どれほどハードな性行為が描写されても、それは決して支配的なものではありえない。なぜなら、彼らは二人とも男の体を持っているのだから。もっとも、この論理は裏を返せば、現実の肉体関係において、彼女たちがいかに男たちから従属を強いられているかを示すものでもある。「セクシュアリティによる差別が、最も端的に持ち出されるのは肉体においてなのである」という野火氏のテーゼが、ここにも反響している。

 

全人的⇔肉欲的

 野火氏いわく、やおい作品の世界においては「性差の問題が全く無視される」。そして、その代わりに強調されるのは、「相手が相手自身である」ということである。相手の肉体にではなく、人格に向けられた愛。だから攻めのキャラクターは、受けのキャラクターを愛するとき、しばしば次のように語る。「俺は男が好きなのではなく、お前が好きなのだ」、「たまたま好きになったのがお前であるだけだ」、「お前が、ほしい」と。これらのセリフはいずれも「相手自身そのものをあますところなく全人的に、完璧に愛する」ということの表明にほかならない。やおい女子たちが陶酔するのは、そんな愛の言葉をささやき合うカップルたちの姿だ。

 

 だが、こうして相手の人格にのみ向けられる性愛を「完璧な愛」として理想化する身ぶりの背後には、彼女たちを異性であるがゆえに欲する男たちの肉欲に対する強い拒否感が隠されている。異性であるがゆえに、というのは、もっと露骨な言い方をすれば、異性の肉体を持つがゆえに、ということである。男性優位社会において、彼女たちの肉体は強制的に商品化され、年齢・容姿・気立て・性体験・魅力などのポイントで品定めされている。そうした男たちの買手市場においては、やおい作品の世界とは真逆に、相手が相手自身であること、彼女が彼女自身であることは全く無視され、彼女たちは非人格的な肉体だけの存在へと貶められている。

 

 こんな不公平は明らかにおかしい、そう思いつつも、彼女たちはときに、こう思うことがあるかもしれない。いっそのこと、この現実を受け容れてしまって、男たちに選ばれるために、ひたすら自分のスペックを磨くことに傾注したほうがいいのかもしれない、そういう生き方のほうが楽なのかもしれない、と。その半身で、彼女は女としての現実を生きている。だが、たとえそのように生きてみたからといって、男たちの性的な眼差し、あるいは、そうして眼差されるみずからの肉体への違和感が消え去ることはない。その抑圧された情念がやがて、あの「内圧に押し出されてゆく切迫した気分」となり、残されたもう片方の半身をやおいファンタジーへと羽ばたかせることになるのだろう。彼女たちはそこで、汚らわしい女の肉体を脱ぎ捨て「魂だけになる」ことを夢想するようになるだろう。

 

(次回に続く)

読書感想文 野火ノビタ(榎本ナリコ)『大人は判ってくれない』 page 2

(前回からの続き)

 

②「攻め」として「愛したい」という欲望

 先に、やおい女子が受けのキャラクターに感情移入するとき、攻めのキャラクターは彼女にとって「抱かれたい男」なのだといった。だが、その反面、彼女たちはその攻めのキャラクターにも自己を投影する。野火氏はいう、「つまり彼女は男になって男を犯したいのである」と(BLとやおいの読者の違いについて、野火氏は、前者が主として受けにしか感情移入しないのに対し、後者は攻めにも感情移入するところにある、とも述べている)。野火氏の観察によれば、実際、やおいの同人誌界では、お気に入りのキャラクターを受けに設定したがる女子が多いのだそうだ。彼女たちは、あるときには受けに同化しつつも、あるときは攻めにも転じるのであり、そこにやおい的欲望の複雑さがある。

 しかして、女子たちが攻めに同化するとき、性愛の式は次のように書かれる。

 

 「愛する(犯す)男」 × 「愛される(犯される)女」としての「私」

→「愛する(犯す)男」としての「私」 × 「愛される(犯される)男」

 

 このとき、感情移入の運動は、たんにスライドするのではなく「ねじ曲がった」ものになっている。「ねじ曲がった」というのは、この変身の運動が、①の「受け」として「愛されたい」という欲望における性別上のスライド(女→男)に、さらにもう一ひねり、役割上のスライド(受け→攻め)が加えられることで、屈曲的な動きをなしているからである。

 

 こうした欲望に衝き動かされたやおい女子たちの身ぶりについて、野火氏はあけすけにこう語る。つまり彼女たちは「ファンタジーの世界で男性を去勢、ペニスを奪い取り、男性を犯している」のであり、この側面におけるやおいの機能とは「ちんちんを持っている男の子からそれを奪い取って、自分で装着して犯すぞ」というところにあるのだ、と。それゆえ彼女たちが欲望を仮託するペニスは、無から捏造されたものであっては甲斐がない。それはあくまで、男の股間から奪取されたものでなければならない。それは、現実世界で彼女たちを支配しようとする男たちへの「ささやかな復讐」でもあるのだから。

 

 ここでも私たちは、ペニスの象徴的意味を思い出さずにはいられない。つまり、やおい女子たちが奪い取ろうとするのは、社会的ないし政治的な権力であり、つまりこれはラディカル・フェミニズム運動の暗喩なのである、と。たしかに、野火氏がこれらに類することを念頭に置いていることには、ほぼ間違いはないだろう。だが、やはり私はここでも、こうした象徴性を強調することを控えたくなる。先述のように、野火氏の論の強さは、バカみたいに単純な肉体の現実を重視し、それをやおい女子たちの原点とするところにあると思えるからだ。だから、ここで論じられていることも、あくまで「原初的な欲望」の位相において受け止めたい。

 

 女子たちは、男たちから覆いかぶされてパンパン突かれるだけの存在でいることが、耐えがたく不愉快だった。そこで彼女たちは、ファンタジーの世界へと出かけてゆき、脆さから逞しさへと羽ばたいた。男たちからペニスを奪い取り、それを股間に装着して、こんどは彼らをアンアン言わせることを愉しんだ。それは、男たちを嗤いながら弄ぶ残酷な天使たちの遊びである。受けの男は決して彼女を押し倒すことはできない。彼女はそこで、絶対に主権を失わない。

 

(次回に続く)

読書感想文 野火ノビタ(榎本ナリコ)『大人は判ってくれない』 page 1

やおい女子の原点と三つの欲望

 現実の性愛において、女が男に対して担わざるをえない「役割」を、野火氏は次のような式で記述している。

 

 「愛する(犯す)男」 × 「愛される(犯される)女」としての「私」

 

 女はどうやってもこの役割関係を覆すことができない。彼女には「ペニス」がないからだ。男の「肉体」にはペニスがついており、女の「肉体」にはペニスがついていない。だから、男が犯す側であり、女が犯される側である。以上。身も蓋もない、バカみたいな話だ。しかし野火氏は、この肉体の現実をこそ重視する。ペニスを持たないという、ただそれだけの理由から、女は男との肉体関係において絶対的に不公平な役割に甘んじなければならず、甘んじなければならないがゆえに、いつしかみずからの肉体を「不能」と感じるようになる。

 

 こうした野火氏の論に際しては、誰もが精神分析を想起するだろう。周知のとおり、精神分析において「ペニス」は権力の象徴であり、本書もこの考えを参照しているのだろう、と。たしかに、野火氏がこうした知見を考慮していることに疑いはない。しかし、こうした象徴性は、こと野火氏の言論空間においては、過度に強調されるべきではないように思う。おちんちんがない、という、解釈もへったくれもないあからさまな肉体の現実をこそ、野火氏はあえて重視しており、それが彼女のやおい論の強みであり正しさであると思えるからだ。

 

 さて、こうした肉体の不能感という現実が女子たちの原点にあるのなら、彼女たちは何を求めて、やおいというセックスファンタジーのなかへと出かけてゆくのだろうか。

 

 そもそもやおいとは、男同士の性愛を描く物語である。その愛の現場に、女のキャラクターは通常姿を現わさず、あるいは現したとしても脇役としてにすぎない。であれば、現実的には女性であるやおい女子たちは、どうやって作品の物語にコミットし、カタルシスを得ているのだろうか。彼女たちは一見不在にみえる。が、野火氏いわく、やおい女子たちは、実は愛し合う男たちに心情的に「自己投影」し、彼らと「同化」しているのだという。

 

 この「感情移入」のプロセスは、やおい作品と彼女たちのあいだで複雑に絡み合っているのだが、野火氏はそれを次の三つの欲望としてきわめてクリアに析出している。

 

 ①「受け」として「愛されたい」という欲望

 ②「攻め」として「愛したい」という欲望

 ③「愛し愛される」関係性それ自体への欲望

 

 このように、数式のような明晰さと、やおい作品への愛の熱量とが完璧なかたちで符合するのが、野火氏の論の特徴である。以下では順に、これら三つの欲望についてみてゆこう。

 

「受け」として「愛されたい」という欲望

 第一に、やおい女子たちは、受けのキャラクターに感情移入しているのだと野火氏はいう。それは、その身体的特徴からして明白で、ペニスが挿入される性器としての受けのアナルは、明らかに女性器を模して描画されており、女子たちの同化を呼び込むための装置として機能している。実際、長年にわたって同人誌界を観察してきた野火氏の実感に照らしてみても、受けのキャラクターに感情移入しているやおい女子の割合はかなり多いのだという。しかして、この受けの観点からすれば、攻めのキャラクターとは彼女たちにとって「抱かれたい男」であることになり、冒頭に挙げた性愛の式は次のような仕方で「スライド」されていることになる。

 

 「愛する(犯す)男」 × 「愛される(犯される)女」としての「私」

→「愛する(犯す)男」 × 「愛される(犯される)男」としての「私」

 

 このスライド運動によって、やおい女子は「自分と男との関係の位相はそのまま保存しながら、女性としての現実の肉体を放棄」することに成功している。彼女は、肉体的には当事者でないが、心情的には当事者になることができる。そんな彼女の変身を何がモチベートしているのかは明らかだろう。あの、身も蓋もない肉体の現実である。生身のままで犯されれば、男の支配を免れることはできない。そこにはさまざまな傷つきのリスクも伴う。強姦されるかもしれないし、望まない妊娠をさせられるかもしれない。その点、受けのキャラクターの有するファンタスティックな肉体は都合がいい。その肉体は、どれだけハードな性行為によっても傷つくことはなく、生々しくもなく、同性であるために妊娠させられる危険性もない。異性である男の肉体は、我と我がものとして想像するのが難しいのだが、彼女たちはむしろそのリアリティのなさを逆手に取り、防壁としての幻想性を加速させることへと援用する。野火氏いわく、こうした装置によってやおい女子は「自分自身は安全圏に置きながら、セックスの快楽だけを享受することができる」という。ペニスをもたない彼女たちにとって、受けへの感情移入は、現実よりも「モアベター」なオプションとして機能しているのである。

 

 安全なセックスを欲して出かけてゆく彼女たちをして、それを安易な現実逃避とみなす向きもある。そうした見方に対して野火氏は、ある程度は同意を示しつつも、そう断定することでこと足れりとする態度は避けるべきだと付言する。なるほど、それは現実からの逃避ではあるかもしれない。しかし、だとすればなおさら重要なのは「彼女たちがなぜ、自分自身のままでは抱かれたくないのかを考えることだ」からだ。彼女たちはみな、多かれ少なかれ、生身のままで性行為を行うことにコンプレックスを抱いている。当然その度合いは人それぞれで、強烈な嫌悪を抱いている者もいれば、ささやかな憂鬱を感じているだけの者もいるだろうが、そこには共通の、あの肉体の不能感から脱出しようという衝動がある。女子たちは、安全さや気楽さを求めてやおいへと向かうのだが、彼女たちがそうするのは、そうした「内圧に押し出されてゆく切迫した気分」からなのであって、それはたんに平穏無事な日常から出かけてゆくという安易な逃避行ではないのである。

 

(ちょっと長くなりそうなので、続きは後日) 

読書感想文 永田希『積読が完全な読書術である』

積読のうしろめたさ
 この本の中で著者は、本を読まずに積むという行為には避けがたく「うしろめたさ」が伴うことを、再三にわたって強調している。読者に積読を勧める著者じしんが、そのことを痛切に実感しているのである。


 著者いわく、積読のうしろめたさとは本質的に、私たちが書物たちの期待に応えられないことによる。そもそも書物とは、その存在意義からして「いつかは誰かに読まれるはずだ」という想定のもとに作られており、それゆえ私たちに「いまあなたに読まれたい」という声ならぬ声を発している。書店や図書館に陳列されている本はおろか、その中からわざわざ自分で選んできた本であれば、なおさらである。積まれた本たちが迫ってくる。「読め」「いま読め」「あなたが読め」と。

 

永田氏のシャーマニズム
 じっさいに山と本を積んだ経験がある者であれば、このうしろめたさについては誰もが首肯するところだろう。現代の読書人は、無数のうしろめたさに苛まれながら読書をしているのだが、さりとて根本的にそれを解消させる方法はない。言うまでもなく、読んでも読んでもキリがないからだ。


 とはいえ私は、著者のいう書物たちの声というのは、こうした時代状況のリアリティを伝えるための擬人的な比喩なのだろう、と当然のように思って読み進めていた(たぶん、他の読者の方々もそうだと思う)。が、途中から、これはひょっとして比喩なのではなく、永田氏にはほんとうにこうした声が聴こえているのではないかと訝るようになった。それほどに、この本の中では「積読は、うしろめたい」「積読は、うしろめたい」「積読は、…」という言葉が、幾度も幾度もリフレインされるのである。


 思えば、著者は、蔵書の散逸を「悲劇」とし、書物を管理しないまま劣化させることや、いわゆる自炊のための断裁することを、本に対する「虐待」あるいは「屠殺」であるとさえ感じていた。正直にいってここまでの感覚は、私の中には無いものだ。著者の感性と照応されて気づかされたが、私はもっと即物的に、偽悪的にいえば「ツール」として、書物というものを捉えているようである。それからすれば、著者の感じているものは、もっとずっと切実なものであるのだろう。本書を読み進めるにしたがって、永田氏の感性は、まるで書物たちの声ならぬ声を聴くシャーマニズムにように感じられてきたのである。

 

読書人に許されていること
 さりとて、むろん著者は、うしろめたさに拘泥したままでいることをよしとするわけではない。コンテンツ産業・メディア産業のかつてない進展により、出版される書物の点数は無際限に増殖し続けている。そんな過酷な「情報の濁流」の中で、それでも読書人として生き延びてゆくためには、どうしても迫りくる書物たちから身を躱す必要があり、無防備に手をこまねいているわけにはいかない。


 著者は次のように言う。「書物のほうは、人に向かって「いまここで読んで」と語りかけてくるかもしれませんが、人のほうがそれを却下することもまた許されているのです」と。とはいえ、それが許されるのは、人間が書物を好き勝手に扱ってよいからではない。書物には書物固有の時間があり、それと交叉するのは必ずしも私の時間である必要はなく、他の誰かの時間であってもよいからだ。それゆえ、書物を情報収集のためのツールとしか見ない「現世利益的な書物観」に対しては、次のよう言われる。「自分の目の前にある本を読むかどうかという問いは、個人的な時間のなかではそれなりに重要な悩みかもしれませんが、しかし書物のほうからすれば、別の時代の誰かが読んでくれればいいのです」と。書物たちの声を聞き届ける永田氏らしい歴史宗教的な書物観である。


 誰にも読まれない書物の運命はむろん悲劇である。とはいえ世界の悲しみをぜんぶ背負い込むことなんて、私たちにはできないのだ。永田氏の言葉は、今日も積まれた本たちに囲まれながら、そのうちの一冊に顔を埋める読書人にとってのエンパワメントになるだろう。少なくとも、私にとってはそうだった。