おんたま倶楽部

読書感想文などを中心に書いていこうと思います

読書感想文 永田希『積読が完全な読書術である』

積読のうしろめたさ
 この本の中で著者は、本を読まずに積むという行為には避けがたく「うしろめたさ」が伴うことを、再三にわたって強調している。読者に積読を勧める著者じしんが、そのことを痛切に実感しているのである。


 著者いわく、積読のうしろめたさとは本質的に、私たちが書物たちの期待に応えられないことによる。そもそも書物とは、その存在意義からして「いつかは誰かに読まれるはずだ」という想定のもとに作られており、それゆえ私たちに「いまあなたに読まれたい」という声ならぬ声を発している。書店や図書館に陳列されている本はおろか、その中からわざわざ自分で選んできた本であれば、なおさらである。積まれた本たちが迫ってくる。「読め」「いま読め」「あなたが読め」と。

 

永田氏のシャーマニズム
 じっさいに山と本を積んだ経験がある者であれば、このうしろめたさについては誰もが首肯するところだろう。現代の読書人は、無数のうしろめたさに苛まれながら読書をしているのだが、さりとて根本的にそれを解消させる方法はない。言うまでもなく、読んでも読んでもキリがないからだ。


 とはいえ私は、著者のいう書物たちの声というのは、こうした時代状況のリアリティを伝えるための擬人的な比喩なのだろう、と当然のように思って読み進めていた(たぶん、他の読者の方々もそうだと思う)。が、途中から、これはひょっとして比喩なのではなく、永田氏にはほんとうにこうした声が聴こえているのではないかと訝るようになった。それほどに、この本の中では「積読は、うしろめたい」「積読は、うしろめたい」「積読は、…」という言葉が、幾度も幾度もリフレインされるのである。


 思えば、著者は、蔵書の散逸を「悲劇」とし、書物を管理しないまま劣化させることや、いわゆる自炊のための断裁することを、本に対する「虐待」あるいは「屠殺」であるとさえ感じていた。正直にいってここまでの感覚は、私の中には無いものだ。著者の感性と照応されて気づかされたが、私はもっと即物的に、偽悪的にいえば「ツール」として、書物というものを捉えているようである。それからすれば、著者の感じているものは、もっとずっと切実なものであるのだろう。本書を読み進めるにしたがって、永田氏の感性は、まるで書物たちの声ならぬ声を聴くシャーマニズムにように感じられてきたのである。

 

読書人に許されていること
 さりとて、むろん著者は、うしろめたさに拘泥したままでいることをよしとするわけではない。コンテンツ産業・メディア産業のかつてない進展により、出版される書物の点数は無際限に増殖し続けている。そんな過酷な「情報の濁流」の中で、それでも読書人として生き延びてゆくためには、どうしても迫りくる書物たちから身を躱す必要があり、無防備に手をこまねいているわけにはいかない。


 著者は次のように言う。「書物のほうは、人に向かって「いまここで読んで」と語りかけてくるかもしれませんが、人のほうがそれを却下することもまた許されているのです」と。とはいえ、それが許されるのは、人間が書物を好き勝手に扱ってよいからではない。書物には書物固有の時間があり、それと交叉するのは必ずしも私の時間である必要はなく、他の誰かの時間であってもよいからだ。それゆえ、書物を情報収集のためのツールとしか見ない「現世利益的な書物観」に対しては、次のよう言われる。「自分の目の前にある本を読むかどうかという問いは、個人的な時間のなかではそれなりに重要な悩みかもしれませんが、しかし書物のほうからすれば、別の時代の誰かが読んでくれればいいのです」と。書物たちの声を聞き届ける永田氏らしい歴史宗教的な書物観である。


 誰にも読まれない書物の運命はむろん悲劇である。とはいえ世界の悲しみをぜんぶ背負い込むことなんて、私たちにはできないのだ。永田氏の言葉は、今日も積まれた本たちに囲まれながら、そのうちの一冊に顔を埋める読書人にとってのエンパワメントになるだろう。少なくとも、私にとってはそうだった。