おんたま倶楽部

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読書感想文 中島梓『タナトスの子供たち 過剰適応の生態学』 page 1

中島梓のアンビバレンス

 

はじめに

 ふとしたきっかけから、私は「やおい」に関心を持ち、近ごろ関連書籍を読んでいる。その一環で、本書を手にした。この分野において、本書は主要な著作とみなされている。

 その独特の文体のために、初めのうちは違和感しかなかったが(だって文末に(爆)とか書くから)読んでいるうちにそれは慣れた。内容は非常に面白く、分析は鋭く、ぐいぐいと引き込まれるように読み進めた。が、途中まで読んで、私は自分の中に湧き起こった疑問をいったん整理したくなった。その疑問は、個々の内容についてというよりも、やおいの読者について語る著者の中島じしんのアンビバレントな身ぶりに関わるものだった。これ以降の自分の読みを助けるためにも、限定的にではあるが、試みに文章を書いてみる。

 

優しいディスコミュニケーションの世界

 やおいの界隈にいる女性たちは、やおいの言語だけを話し、やおいの感覚を共有できる人どうしとしか交際しない。中島いわく、そんなアニパロ同人誌の世界は、「みんな吃驚するほど優しく、そして丁寧でフレンドリィ」(p.79)である。そこでは、たがいの作品を批判するような言葉は決して口に出されず、中島の感覚からすれば「相当ひどい(ときたま、すさまじい)絵のレベルな人」でさえ、必ず誰かが褒めてあげ、自負心を優しく救済してあげるのだという。

 

 「もうみーんなほんとに優しくって哀しくなるほどに心やさしい人々である」(p.80)と、中島はアイロニカルな調子で語る。では、どうして彼女たちは、そんなにも過剰に優しい世界を創り出すに至ったのか。それは、彼女たちの原点に、現代の男性優位社会において女性として深く傷つけられたというトラウマがあるからである。その結果として、彼女たちは、みずからの価値観を傷つける可能性のある一切の「他者」を拒絶する「ディスコミュニケーション」の世界に引きこもってしまった。その世界が、まさしくやおいの世界なのである。中島はいう、「ヤオイとは結局、疎外され、居場所を失い——ないし与えられなかった少女たちが見出した、究極の内宇宙、彼女たちにあたえられた社会の環境のゆがみがもたらした、いびつな、しかし幸福な性と愛との新しいエデンであった、と——」(p.222)。

 

 少女時代にあっては「大人」、性的には「男」という不気味な他者たちから、彼女たちは虐待されて生きてきた。彼女たちの人格や主体性を一切認めようとせず、自分たちの尺度で利用することしかしない「異物」たち。それでも反抗することはおろか、その場から逃げ出すことさえ許されず、ひたすら彼らと「コミュニケーション」をとり続けることを強いられてきた。そんな彼女たちにとって、同質的な者どうしで寄り集まるやおいの優しい「ディスコミュニケーション・ファンタジー」 は、この過酷な世界の中でようやく見つけることのできた居場所なのである。彼女たちは「コミュニケーションの力を要求し、それがなければあっさり叩きつぶされる大人たちの世界から抜け出して、この「まんだらけ」の世界の片隅でようやく安らっている」(p.80)、と中島はいう。だから、やおいの界隈に定住し、その言語と感覚を共有する者としか交際しないという彼女たちの身ぶりとは、「あんたたち(大人)の論理はもういらない」「もう私たちはそこからオリるよ」という国交断絶宣言でもあるのだ。彼女たちは、自分たちのことを虐げてきた他者たちとの関係を断ち、やおいという「子宮」のなかで永久にまどろんでいたいのである。

 

同情と突き放し

 こうした生育歴をもつやおい読者たちの境遇に、中島は一方では同情を示す。あまりにも過酷な環境に適応するために、適応すべき環境そのものを拒絶してしまった彼女たちの「過剰適応」は、もとはといえばそれを強いた社会のせいなのであって、彼女たちが悪いのではない、という目線が中島にははっきりとある。男性が女性に対して非常に優位なこの社会において、彼女たちは幼い頃から厳しい選別の目に晒され、年齢・容姿・気立て・性体験・魅力等のポイントで価値を判定された「商品」として生きてこなければならなかった。「闘技場で活躍して賞賛を得る資格も与えられず、家庭のなかにも居場所を認められず、ただただ「優秀な性的商品であれ、そうしたら抱いてやろう」とそそのかされてきた少女たちというのは、ある意味で、全員が性的虐待と精神的遺棄の被害者なのではないでしょうか」(pp. 225-226)、「自分の値打ちは大人たち、男たち、社会、つまり自分を「選んでくれる」相手が決めることなのだと信じこまされてゆく少女たちは基本的にネグレクトの被害者だといってもいい」(p.227)と、中島はいう。だから、そんな過酷な虐待の末に、彼女たちが男たちの「買い手市場」とも呼ぶべきこの社会にとっての「いい子の少女」であることをやめて、永久にファンタジーの世界に住まうようになったとしても、それはそんな過剰な適応を迫った社会の方が異常なのだ。「この世界が、これでよくないから、そういうことがたくさんおこっているのだし、そもそも世界などというものは「これでいい」ことなど決してありえない」(p. 356)。

 

 しかし他方で中島は、そんなやおいの読者たちを思い切り突き放すようなそぶりもみせる。やおい作品に安らう彼女たちについての中島の語りに、常に何がしかのアイロニカルな調子が伴うことには、本書を一読した者であれば誰もが気づくだろう。その例は枚挙にいとまがないが、たとえばやおい作品をして「傷つき現実のなかでもまれることに疲れた未成熟なかよわい自己愛をそっと外の世界の波風から守り、やすらかなディスコミュニケーションの緩衝材でおおいつくした異次元のなかでの、強烈な癒しの麻薬」(p.118)とする一文などはその典型である。そもそも「過剰適応」という語彙からしてそうなのだが、中島は明らかに、彼女たちの生き方に対して否定的な考えをもっている。なかには「弱者のヒロイック・ファンタジー」(p.82)あるいは「ディスコミュニケーション時代の精神の病気」(p.100)といった峻烈な言葉も見当たり、これなどはもはやアイロニーのレベルを超えた、あからさまな攻撃である。とうてい性的虐待からのサバイバーに対するふるまいだとは思われない。当事者であれば、思わず「ほっておいてください!」と叫び出したくもなるのではないか。

 

 こうした批判を中島は、陰に陽に本書のいたるところで繰り広げているのだが、それらはつまるところ、やおいの世界には「他者」がいない、という一点に極まるのだといえる。

 

「本当はコミュニケーションというのは「他人がいかに自分と異なる存在か」ということを理解するためのぶつかりあいです。かれらはそのぶつかりあいも、「他人が自分と異なる存在」だということを理解するのもイヤだ、と表明しているのです。ぶつかりあいません、自分たちは勝手にこのファンタジーを守っています、だから近寄るな、こっちにくるな、この世界に関係ない人は関係ない、というのが無意識的にせよかれらの論理だと思います」(p.83)

 

 容易には理解しえない者どうしが互いを刻み合い、身を切るようにして交互に研ぎ澄まされるプロセス、そんな「ぶつかりあい」だけが、中島にとっては真にコミュニケーションと呼びうる営みなのだろう。そして当然こうした観方からすれば、共感できる者どうしで身を寄せ合い、傷つけ合わないことだけを至上命題とするようなやおい界隈の関わり合いは、人間関係のあるべき姿とはみなされない。中島が彼女たちの語らいをして「ディスコミュニケーション」と呼ぶのも、そこで語らっているのが、他者ではなくむしろ「もう一人の自分」であり、そこにあるのは実質的には独り言である、と彼女が考えているからだろう。

 

 しかして、こうした批判を展開する中島が、大前提として〈他者とコミュニケートすべきである〉という立場に立っているのは言うまでもない。それはほとんど、コミュニケーション至上主義と呼んでも過言ではないほど強固なものだ。中島はときに、ディスコミュニカティヴなやおいの世界をして「それでいいのです」(p.80)、「べつだんそれが悪いといっているのではありません」(p.99)と言ってみたりもするのだが、本書のアイロニカルな主調の中では、この言葉を字面通りに受け取る者はいないだろう。中島がぜんぜん「それでいい」と思っていないのは明白で、むしろこれはやおい読者たちに対する突き放しの身ぶりというべきである。要するに、わかりあえない他者とわかりあえなさを抱えたままコミュニケートしつづけるべきであり、それを拒絶して自分たちだけの世界に閉じこもるのはダメである、と中島個人は考えているわけだ。彼女に迷いがあるとすれば、その個人的な価値観を、どこまで自分以外の他人、つまりやおい読者の女性たちにまで適用してよいか、という地点においてであって、裏を返していえば、少なくとも彼女自身にとってコミュニケーションが持つ価値に限っては、揺らぎは全く見受けられない。

 

 こうした中島の考えに対しては、やおい読者はおろか、多少なりともディスコミュニカティヴな性格を自認する者であれば、反感をおぼえることがあるのではないか。正直にいって、私じしんはそうだった。厳しい批判を向けられている彼女たちに勝手に自己を投影した私の胸中には、本書を読み進めるにしたがって、中島の主張に対する反感がムクムクと湧き上がってきてしまった。

 

 そもそもまず、どうしてそんなに手放しにコミュニケーションの価値を礼讃できるのかがわからない。なぜ中島は、ディスコミュニケーションとコミュニケーションを、等位の立場として捉えようとはしないのだろう。また、仮にコミュニケーションには無条件に価値があるのだとしても、それによってやおい読者たちの関わり合いを全否定するのは間違っている。彼女たちは、ずっと自室に引きこもっているのではなく(べつに引きこもっていてもいいのだが)、作品を通してれっきとしたコミュニティを形作っている。それが、世間一般の人間関係と比べて、相対的に他者性が弱いものだとしても(そもそも、中島を含め、世間の人びとが普段からそれほど強い意味での他者とコミュニケートしているのかも私には甚だ疑問なのだが)、彼女たちの関わり合いを緩やかな「他者」とのコミュニケーションだといってはならない理由はない。価値観や趣味趣向を全く異にする他人以外は「他者」と呼ぶには値しないというのは、狭隘な独断にすぎない。それに、これも忘れてはならないことだが、やおいの世界は彼女たちにとって生活のぜんぶではない。学校や職場、家庭、恋人・友人・知人との関係…、彼女たちには日常的にやおい読者ではない無数の「他者」と関わっている。その中で、ときおりそうしたコミュニケーションによる疲れを癒すために、生活の一部としてディスコミュニカティヴな世界を持つことが、どうしてそれほど非難されねばならないだろう。この社会が、彼女たちを虐待しつづけた、あるいは今もしつづけている男性優位社会であることを考えればなおさらだ。やおいの世界でまでハードなコミュニケーションを強要されたなら、彼女たちはいったいどこで安らえばいいのか。

 

ぜんぜん優しくない大人として

 とはいえ、こうして思いつくままに反論を並べ立てて、だからもう「ほっておいてください」と言ってしまうというのもどうなのか。それでは本書を繙いた甲斐がない気がする。中島が批判していたのは、まさにそうして途中でコミュニケーションを打ち切ってしまう態度だった。であれば、もう少し別の角度から彼女の意図を受けとめることはできないか。

 

 改めて気になったのは、やおいに対して部外者のようにふるまう中島の身ぶりである。たしかに、彼女はやおいに属する作品を数多く執筆しているし、じしんがそのジャンルのパイオニアの一人であるという自負もある。だが、現在の読者たちに共通すると彼女がみなしているAC(アダルトチルドレン)としての性格、あるいはその原因としての外傷体験についていえば、そうしたものを自分じしんは持っていないと中島は明言している。拒食症や依存症になったこともなければ、リストカットをしたこともない。主観的にはともかく、客観的には恵まれた環境のもとに育った。社会生活にもさほどの障害はなく、他人とのコミュニケーションをとれている。これらの発言によって中島が表明しているのは、自分は読者たちとやおいを拠りどころとせざるをえない生きづらさを共有してはいないし、そういう意味では部外者である、ということだ。

 

 こうした表明は、またしてもやおい読者たちの神経を逆なですることになりかねないものではある。同じ傷、同じ生きづらさを抱える人にならまだしも、無傷の部外者から、あなたたちはACだからダメだ、と言われれば、あなたに私たちの何がわかる、という気にもなろうからだ。

 

 しかし、私はそこで、ふと思った。中島のこのふるまいはひょっとすると、あえてのものではないのか、と。あえて、というのはつまり、こうした身ぶりによってこそ彼女は読者たちに対して強い意味での「他者」であろうとしている、ということだ。優しい世界に土足で踏み入り、言ってはならないことを口にする。その禁句が少女たちの怪我した心に突き刺さる。悲鳴が聞こえる。……だが、それによって中島は、本当の意味での「他者」とはこういうものだ、ということをみずから体現しようとしているのではないか。

 

 そういうふるまいがやおい読者たちに拒否感を与えることについて、中島はきわめて自覚的である。

 

「この評論を読んで「違う。絶対違う」と感じるやおいのヒトも数多くいることだろうと思います。それは、この文章もまた、大人の言語で書かれているからです。書いている内容ではなくて、コミュニケーションのために発明された言語を使って書かれている、というだけでもう、ディスコミュニケーション・ファンタジーの人々にとってはそれは「違う」のです」(pp.83~84)

 

 ここでいわれている「大人の言語」あるいは「コミュニケーションのために発明された言語」とは、言語を共有しない者どうしの間で交わされる言語のことだろう。とうぜん、その言語でのコミュニケーションはスムーズではなく、ぜんぜん「キモチイイ」ものではない。たがいの価値観がいちいち抵触するぎこちなさや、護っている自分の価値観が傷つけられる不安がともなう。だが、中島がいおうとしているのは、まさにこれこそがコミュニケーションなのだ、ということだろう。彼女たちとの間に「大人の言語」のチャンネルを強制的に開くために、中島はあえて、ぜんぜん優しくない大人としてふるまっているのではないか。そして、もっといえば、これは中島なりのエンパワメントなのかもしれない。つまり、あなたたちもこのくらい好き勝手にしていいのよ、という。中島が彼女たちに対して他者であるように、彼女たちもまた中島に対して他者であっていい、という。同人誌の界隈で出会った彼女たちのことを「哀しくなるほどに心やさしい」と評していた中島は、そんなに優しくなんてならなくていい、ということを自らの身ぶりで伝えようとしているのではないか。あなたたちだって大人になれるのだから、ずっと傷ついた少女のままではないのだから、と。